色覚異常 どうやって生き延びたか
こんにちは。
今朝から足の指に痛みがあり病院に行ってきました。
おかげさまで「痛風」確定です!
長年尿酸値が高かったので、いつかその時がくるだろうと覚悟していたので、まあ納得の結果でした。
診察の際、医師が私の足の指を見て、「腫れて赤くなってるね」 と言うのですが、確かに少し腫れてはいるものの、色については、パッと見では断定するほど赤いかな?と感じました。
そうなんです。タイトルにある色覚異常、私もその一人なんです。
色覚異常って言うと色が全くわからないのかな?って思われるのですが、私の場合は全ての物に色がついて見えますし、信号の色も見分けられます。もちろん運転免許も取得できます(一旦みなさんが受ける色覚の検査を受けますが、それは通らないので、赤・青・黄の色紙の判別試験を追加で受けます)。
色は見えるけど、他の多くの方と違う色に見えていると言うことです。おおよそ日本人男性の20人に一人、日本人女性の500人に一人が色覚異常なので、それなりにいます。
自分が色覚異常だと知ったのは、小学校1年の時です。学校で行われた検査で通らず、他の数名ともう一回検査をして確定しました。母が大変落胆しました。なぜなら母の父が色覚異常で、母は祖父から「お前の一人目の息子は色覚異常の可能性があるよ」と事前に聞いていたからです。遺伝上の法則です。きっと母は自分の責任のように感じたことでしょう。
ただ、色覚異常で困ることはずっとありませんでした。
最初に困ったのは、中学生の頃で地理の教師がやたらと地図帳を色鉛筆で色分けさせる人で、これはもちろん教育的効果を狙ったものですが、私には多くの色で地図帳を塗ったところで、まったくわかりやすくなかったです。と言うか混乱です。沢山の色を使うよりは白地図のまま、文字で表現されている方がわかりやすいです。
また、思春期になると洋服に興味を持ちましたが、色の組み合わせが苦手でした。のちに大人になって、最終的に会社では紺のジャケットに白いシャツしか着なくなりました。決まった組み合わせなら安心できたので。まあ、逆に独特の感性ってことで、うまく活用している人もいるかもしれませんが。
中学3年の頃、母の勧めで色覚異常の矯正教室に通うようになりました。今思うに、この教室で行われていたことは、色覚の試験に出る問題をなんどもなんども見て、目を慣らすというようなものだったと思います。
教室に入ってすぐに、飾ってある絵を真似して色を塗ってみてと言われて描いたものを訓練が終了した数ヶ月後に見たら何で自分はこんな色に塗ったんだろう?と本気で驚いた覚えがあるので、自分は人とかなり違ったものを見ているのだろうなと・・・
当時は大学で化学を専攻する場合など、色覚試験に通る必要がある大学もあったので、母はお金をかけてまでこんなトレーニングをさせたのだろうと思うけど、化学の道にも行かず、また、運転免許の試験も通常の色覚検査は通らないところをみると、無駄だったなと残念です。親のありがたさだけはしっかり感じるけれど。
今は、学校では色覚検査はしないらしく結構なことに思えるが、大人になってから航空関係の職につこうとしたら、色覚検査に通らずがっかりなんてことがあるらしいので、それはそれで困りますね。
前置きが長すぎた。
タイトルのどうやって生き延びたかってのは、そんなに人と違う色を見てて、地図帳の色分けの意味がわからない状態で、太古、人がまだ森で暮らしていた頃、私の先祖は木ノ実やきのこ、動物の色を識別できなかったんじゃないだろうか?つまり食料の確保に苦労したんじゃないだろうか?と疑問に思ウノです。
あるいは肉を焼いて食べる時、よく焼けているか判別できずになま肉を食べて、具合が悪くならなかったんだろうか?
そんな状態じゃ狩猟時代を生き延びることは不可能だろうと思うのです。
今さっき答えを知りました。ネットで。ありがたい時代です。
私たち色覚異常者は、緑色の判別が得意らしく(全員かどうかは?)、森の中でその力を発揮したそうです。良かった。その頃は頼りにされてたんだろうね。
もう、森に入ることが日常って人は少ない時代ですが、これを知って森に行ってみたくなりました。
何で色覚異常なんてあるのかなってながらく疑問でしたが、それなりに意味ありました。
また、必要とされる時代が来ることはなさそうですが・・・
ではまた。
今では色覚異常と言われてますが、昔は色盲と言われました。時代は確実に良い方向に進んでいると思ってます。